ただ、歩く。
ひたすらひたすら、歩いていく。
まるでそれが仕事の様に、真っ直ぐ歩く。
左へ曲がる道があれば、左へ曲がり、
右へ曲がる道があれば、右へ曲がる。
ただ、歩いていく。
ひたすらひたすら、歩いていく。
[私は私でしかないのだ。誰でもない。私なのだ。]
彼は、何者でもなかった。
自分自身、[何者でもない。だから自分なのだ。] と、思っていた。
何者でもない彼。
その何者でも無い彼に、人々は賛辞を送り始める。
きっかけなぞ、どうでも良い事になってしまっていた。
始まりなんて、本当に分からない。
ただある日、人々の好奇の目にさらされ始めていた。
人々は彼を褒め称え、賛辞を送る。
そんな生活も、始めはよかった。
一日一食の食事もままならなかった彼の生活は一変し、
三度の食事以上の食物が、彼の元に集まり始めた。
食べ切れず、余った物を食事に困っている近所の者達に分け与えた。
[有難う御座います、有難う…。感謝いたします。]
人々は彼にひれ伏し始めた。
彼は戸惑い、
[顔を上げて下さい。私は感謝に値しない人間です。どうか、顔を上げてください。
この米も、野菜たちも、私が作った物では有りません。
他の人々の善意の御裾分けに過ぎません。私は感謝に値しない人間です。]
毎日、同じ言葉を、繰り返し呟きながら、彼は人々に食べ切れなかった食物を分け与え続けた。
彼は、元々は、農民の出だった。
小さな頃から、田畑を耕し、父母と共に、貧乏ながらも幸せに慎ましやかに、其の生活を送っていた。
其の父母も、今は天へと還り、彼は天涯孤独だった。
一人きりで過ごす夜には、コップ一杯のアルコールを片手に屋根に上り、
月を見ながら、一人、この世の幸せを願うのが、日課だった。
静かな夜を愛する彼に、その時の幸せな静かな夜は、もう訪れない。
毎夜毎夜、人々が彼の家の軒先に集い、[感謝します。感謝します。] と、呟いては、家路に付く。
貢物を玄関先に置き、彼の声を耳にするまで、その場を後にしない者も多かった。
其のつど、彼は気の扉を開け、[もう、夜も深いですから、どうぞ、私の手をお取りに成って下さい。安全な所まで、お送りいたしますから。]
と、彼を慕う者達を、狼の出ない森の外れまで送っていった。
そんな彼に、人々はまた、賛辞を送る。
そんな生活が続いていく。
始めは、食べる物に困らなくなった生活に、感謝をしていた彼だったが、少しずつ、変化を覚えた。
静寂の夜が恋しくなり、彼は人々の目を避け、深夜の森に紛れ込み、一人佇み始める。
[何故、私を褒め称えるのか? 何故、人々は私を求めるのか?
私はただの農民に過ぎない。何もいえた義理では無い。
感謝はしている。しかし、これは行き過ぎではないのですか?
神よ、あなたは私に何を求めていらっしゃるのか?]
彼は、夜空を観ながら自問自答を繰り返した。
それは唐突にやってきた。
村の子供が死んだのだ。
川に落ち、偶然近くに居合わせた彼が、なりふり構わず川へ飛び込み、溺れた子供を岸へ運ぶ間にも、其の子供は息を止めていた。
子供の母親は、亡骸にしがみ付き [おお、神よ、おお、神よ!] と、泣きじゃくる。
彼はかける声も無く、その場に佇んでいた。
其の出来事から数日たったある日のこと。
彼はガラス窓の割れる音で、目を覚ました。
何事かと、彼が暮らす狭い家のリビングへ向かうと、そこにはこぶし大の石が投げ込まれ、
彼の家のリビングのガラス窓を突き破っていたのだった。
[人殺し!]
投げ込まれた石には、そう書かれていた。
石を拾い上げ、彼は唖然となる。
[私が一体、何をしたというのだ?]
思う次から、また、こぶし大の石が投げ込まれる。
一つ一つに、書かれた文字。
[人殺し!] [裏切り者!]
いつしか、投げ込まれるそれは、彼の額に当たり、彼は血を滴らせ始めてしまう。
それでも、彼はその場から動けなかった。
[私が一体何をして、何が気に入らなかったというのだ?]
いつしか、彼は痩せ細った両腕の先にある、其の拳を握り締めていた。
その日から、村人の彼に対する態度が変わった。
溢れんばかりに届けられていた食物は、届かなくなり、彼は、一日一食の食事にも再び困るようになった。
しかし、彼には父母の残してくれた田畑があったのだが、子供が川で溺れ死んだ一軒があってから、彼は外に出られなくなっていた。
投げつけられる小石や、木片、はたまた汚物のせいで、彼の身体は痣だらけになり、薄汚れてしまっていたのだった。
彼が植えた麦は枯れ果て、野菜たちは干からびていた。
毎日を、水のみで過ごす日々を数週間続けた。
そしていつしか、彼は思う。
[私に食物があったとき、分け与えた恩は忘れてしまったのだろうか…?
苦しい時、助け合うのが人間なのではないのか?
私は一体今まで何をしてきたのだろう? 私が何をしたというのだ?] と。
ただ、歩く。
ひたすらひたすら、歩いていく。
まるでそれが仕事の様に、真っ直ぐ歩く。
左へ曲がる道があれば、左へ曲がり、
右へ曲がる道があれば、右へ曲がる。
ただ、歩いていく。
ひたすらひたすら、歩いていく。
[私は私でしかないのだ。誰でもない。私なのだ。]
彼は着の身着のままで、家を捨てた。
懐かしい父母の思い出の残る家を捨て、懐かしい田畑を捨て、
静寂がいとおしい森を捨て、旅に出た。
痩せ細った其の身体一つ、薄いコート一枚で、食物も持たず、水も持たずただ、真っ直ぐに歩き始めた。
顔には無精ひげを伸ばし、靴は擦り切れ、それでも何日も歩き続けた。
歩き続け、時には小さな石や窪みに足を取られ、転んでしまうような、のろのろとした旅路だった。
目的地も無い、目的意識も無い、ただ、歩く。
そして、何も持たない彼の旅は、半年を過ぎた頃に終った。
一段と痩せ細り、ボロキレの様になった其の身体を、砂利だらけの道に横たえ、事切れていた。
それにも拘らず、其の顔には、笑顔があった。
ポケットに一枚の紙切れ。
そこにはこう書かれていたらしい。
[求める物は静寂。あの懐かしい屋根の上の静寂。私は一人でいいのだ。
感謝の言葉も要らない。感謝なぞ、される物ではない。感謝する立場で居たかった。]
しかし、其の言葉の意味を理解する者は、この世には居なかったという。
×END×
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